修善寺に残る悲劇の物語~源氏公園の指月殿・頼家の墓・十三士の墓を巡る悲しき母子の軌跡~

修善寺に残る悲劇の物語~源氏公園の指月殿・頼家の墓・十三士の墓を巡る悲しき母子の軌跡~ 観光地

伊豆・修善寺にひっそりと佇む「源氏公園」は、鎌倉幕府第二代将軍・源頼家の非業の死と、母・北条政子の深い悲しみを今に伝える場所です。

ここには、頼家を供養するために政子が建立したとされる「指月殿」や、若くして命を落とした頼家の墓、そしてその忠臣たち「十三士の墓」など、悲劇の歴史を物語る史跡が静かに残されています。母子の複雑な愛と葛藤の軌跡を辿る源氏公園の見どころと、そこに秘められた物語をご紹介します。

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まずは行った時の基本情報です!

基本情報
  • 時期:2022年4月中旬頃(平日)
  • 天気:雨・曇/気温:12.3℃~17.4℃


修善寺温泉に宿泊し、桂川五橋や色々な観光スポットを散策した時に立ち寄りました。この時のプランは、別記事で書いているのであわせてご覧ください↓↓

記事が完成したらリンクを貼ります。

それでは早速、源氏公園の基本情報です!

基本情報
  • 名称:源氏公園
  • 住所:静岡県伊豆市修善寺932-1
  • タイプ:自然観光
アクセス

バスと徒歩

修善寺駅からバス(修善寺温泉行)で約10分
修善寺温泉バス停下車、徒歩6分

源氏公園には、指月殿、源瀬家の墓、十三士の墓、お伺い石があります。修善寺の源氏公園がいつ整備されたか、具体的な情報は見つかりませんでした。

しかし、源氏公園は、鎌倉幕府第2代将軍「源頼家の墓」やその家臣「十三士の墓」と、息子の供養のため北条政子が建てた「指月殿」がある歴史的な場所であり、これらの史跡を整備する形で公園として整備されたのだと思います。

それぞれ紹介していきます!

指月殿は、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の妻であり「尼将軍」と呼ばれた、北条政子が、子どもの源頼家(みなもとのよりいえ)の供養のため修禅寺に寄進した経堂だそうです。

指月殿は修禅寺の飛地境内にあり、現存する伊豆半島最古の木造建築といわれています。指月殿内には、源頼家公の七回忌に北条政子より寄進されたとされている木造の釈迦如来坐像が祀られているそうです。

指月殿という名前は、「指月」とは、「指し示す月」という意味の仏教用語で、悟りの境地を表す言葉。月を指して真理を示すという意味が込められており、政子が亡き頼家の魂の安寧を願って、月に祈りを捧げたという故事に由来するとも言われています。

歴史をあまり覚えていなくて、北条氏は鎌倉幕府をつくって、その背景に北条政子がいたけど、身内の権力争いが凄かった程度にしか覚えておらず…笑。

指月殿の横にある説明を読んでも、北条政子は「自分で誅伐を命じてるのに何で供養のため指月殿を建てたの?」とよく分かりませんでした。

それで、歴史を色々調べてみました。

指月殿が出来るまでの人物と歴史

鎌倉時代と北条家の歴史
  • 1157年
    伊豆国の有力豪族である北条時政の長女として、北条政子が生まれる。

  • 1159年
    平治の乱で源氏が平氏に敗れ、源頼朝が伊豆に配流される。

  • 1177年頃
    源頼朝と北条政子が結婚する。

    →当時、北条氏源氏を見張る役割もあった。父の時政からは、反対にあうなど色々な逸話がありますが、割愛します。

  • 1182年
    頼朝の嫡男として頼家が生まれる。この時、比企尼を乳母にする。

  • 1180年
    頼朝が平氏打倒の挙兵。政子もこれを支える。

  • 1185年
    頼朝が壇ノ浦の戦いで平家を倒す。政子は鎌倉で政権基盤を固める。

    →鎌倉幕府(約150年にわたる武家政権)がはじまる。

  • 1192年
    頼朝の次男として実朝(幼名:千幡)が生まれる。

  • 1193年
    頼朝が征夷大将軍となる。政子は将軍の正室として権威を得る。

  • 1198年
    頼家の長子として、一幡が生まれる。若狭局(比企能員の娘)との子。

  • 1199年
    頼朝が死去する。(死因は、歯周病による脳卒中と言われています)

    頼家が18歳で家督を継ぎ、政子は出家して「尼将軍」と呼ばれるようになる。
    →「十三人の合議制」が敷かれ、北条氏が実権を握る。
    頼家は将軍親裁を志向し、頼家の乳母夫の比企能員との結びつきを深め、北条氏との対立が激化。

  • 1202年
    頼家が征夷大将軍となる。

  • 1203年
    頼家が病に倒れる(回復不能とみられるほど重篤だった)

    政子時政は、相続の分割案を決める。(一幡が武家の棟梁座と関東28カ国、実朝が関西38カ国の地頭職を相続する)※北条氏は、権力を分割し、比企氏に近い頼家ではなく、将来的に実朝を将軍に据えようとする。
    比企能員は、一幡の後ろ盾として御家人の頂点に君臨しようと目論んでいたため反発。
    →病に伏せながら頼家が比企に北条氏討伐を命じ、時政を追討しようとする。
    →逆に時政比企能員を誅殺する。(比企能員の変)
    政子が、一幡の邸に立て籠もる一族の誅伐を命じたとされ、比企一族が滅ぶ。頼家の妻と一幡も捕らえられ殺された。
    頼家は病が回復して一幡が殺されたことを知り、時政討伐を命ずるも失敗。
    政子頼家を出家させ、時政が執権を握る。
    時政頼家を鎌倉から追放し伊豆国修善寺に幽閉。

  • 1204年
    頼家北条氏の手兵により、修禅寺にて暗殺されたとされている(享年23歳)

    ※家族全てを奪われた頼家は、幽閉中に漆の風呂に入れられ、暗殺時も、入浴中に悲惨な殺され方をされたと言われています。

登場人物が多く混乱したので、派閥にあわせて色分けしてまとめてみました。

この流れだけみると、源瀬家が悲惨すぎて、自身も岐路にその手を下していた母の北条政子が、わざわざ子の供養のために指月殿を建設することに、やはり疑問がありました。

しかし、北条政子が、朝廷を中心の政治体制から、武家政権を作りたかった頼朝の意思を継ぎ、「安定した世の中を作り守るため」に生きぬいたと考えると、指月殿は、自身の子や孫の命すら終わらせる苦渋の決断をした政子の強い意思と、その判断をくだす複雑な心情や悲しい想いからつくられたのものなんだと感じることが出来ました。

源氏公園には、先程紹介した悲惨な最期を遂げた源瀬家の墓があります。またその隣には、源瀬家の死後、謀反を企てその後殺された、源頼家の家臣の十三士(じゅうさんし)の墓があります。

当初、十三士の墓は、南町公民館上の御庵洞にあったそうですが、2004年の台風被害で墓の裏山が崩落し、源氏公園に移されたそうです。

また、毎年7月中旬に、源頼家と十三士の冥福を祈る「頼家まつり」が行われているそうです。祭りでは、頼家や若狭の局に扮した武者行列が修善寺の町を練り歩く武者行列と、頼家のお墓と十三士の墓前供養が行われるそうです。

源氏公園の源頼家の墓の入り口付近に「お伺い石」があります。蓮の花の蕾のような形をした石です。

心の中で願い事をしながらこの石を持ち上げ、軽く感じたら願いが叶い、重く感じてしまったら、願いは叶いにくいと伝えられています。

激動の中で、世を導く母と子の物語に、思わず胸が締め付けられる源氏公園。修善寺を訪れた際は、ぜひ一度足を運んでみてください。

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